Blog

  • 電子ドラム、買っちゃいました!

    電子ドラム、買っちゃいました!

    3月から 第一楽器 香里店のドラム教室に通い始めました。

    月に3回、30分間のレッスンです。

    アラ還で全くの初心者にとって、30分で月3回では全く覚えることができない。

    自分の前の生徒さんは小学生、まず自分に合わせてドラムをセッティングして5分、

    先週のおさらいで10分、説明やなんやで10分、練習に5分で時間終了!!

    そんなこんなで、復讐&予習の為にはドラムセットが不可欠となって購入を決意しました。

    いろいろ悩んだ結果、価格と省スペースを考慮し、Roland TD-4KP-S に決定

    3月26日待望の商品が届きました。


    第一楽器の店長に格別安くしていただきました。

    開梱して並べたところ

    この時点では、それぞれの名前と役割がまだよく解っていませんでした。






    とりあえず、組み立てたところ。
    でも、ええ加減な組み立て方ですね。

    このままでは、音が出せないので近くの上新電機にヘッドホンを買いに行くことに・・・

  • 久しぶりの投稿

    何年ぶりやろか・・

    なんで Facebook じゃなくてブログに書こうと思ったか・・・

    最近物忘れがひどく、過去にアップした内容を確認したくてもタイムラインをさかのぼって確認したり、アクティビティログを検索したりと面倒な上、人に見てもらおうとアップしてもタイムラインにどんどん埋もれて、見てもらいづらく、結果的に 「今●●にいます」 とか 「××を食べています」 とか 「□□に行ってきました」 的な内容ばっかりになってつまらんなぁ・・と思っていました。

    この春から、ドラムを習い始めた。3日坊主俺が続くのかどうか、Facebook では見通しが利きにくいのでブログで書き記していこうと思っている。

  • 向こう三軒両隣から窓の向こうは世界中が両隣に

    45年以上も前のことだが、私が小学生になった頃のかすかな記憶では、私の住んでいた長屋の隣近所は買い物などに出かけるときに鍵をかける習慣は無かったように思う。

    「ちょっと出かけるから、雨が降ってきたら洗濯物を取り込んでおいて!」といったような会話を良く聞いた気がする。

    外から帰ってくると、となりのおばさんが「さっき、雨が降ってきたから、洗濯物、取り込んでおいたよ!」と声がして、家に入ると、居間で洗濯物をたたんでくれたりしていた記憶がある。

    あの頃の近所付き合いは、お互いが、よく理解し、信頼し、共同生活を送る小さなコミュニティができていたように思う。

    信頼関係のある向こう三軒両隣の「多くの目」と「オープンな環境」が犯罪を抑止してきたのだと思う。

    あの頃を「古き良き時代」と片付けてしまうのは簡単だが、人間は進化する生き物である。あれから45年余りどのように進化してきたのだろう?

    21世紀の都会においてはどのように進化してきたのか考えてみた。

    プライバシーと言う名の下、塀を作り、門を締め、雨戸を閉め、外部と遮断された空間に身を置き、いつも通りかかる人に挨拶をすることなく、見て見ぬ振りする。あの頃とは正反対である。

    現代社会においては、呼び鈴からインターホンへ、そのインターホンにはカメラが付き、今では携帯電話から、来訪者が確認できる。
    マンションには、オートドアロックが付き、管理人が目を光らせ、警備会社会と連動しているものもある。

    すなわち、自分の身は自分で守る、安全は、お金で買う時代になったのである。

    それを情報通信の分野でセキュリティを考えたらどうだろう?

    電話、アマチュア無線、ポケットベル、パーソナル無線、自動車電話、携帯電話、パソコン通信、草の根BBS、インターネット掲示板等のコミュニティが存在する。
    また最近では、通信ゲーム、ブログにSNSとコミュニティはめまぐるしく進化をし続け、且つ巨大化してきた。

    世代を越え、性別を越え、時間を越え、国境さえも越えて地球規模にコミュニティは膨らんでいる。

    インターネットに繋がる窓の向こうが、向こう三軒両隣が、向こう三国軒両隣国になってしまったのだ。

    情報通信インフラの進化は、70年代から80年代にかけては、昔の向こう三軒両隣の名残をとどめつつ進化していた気がするのですが、バブルの崩壊、インターネットの普及に伴い、1億総中流化意識はなくなり、勝ち組、負け組みに色分けされ、オープンな環境で便利であるはずのインターネットが、肥大化し過ぎお互いの顔が見えなくなり、方向性を見失い制御不能になってしまっています。

    進化が早すぎて文化が育っていないのですね。

  • facebook 始めました。

    http://www.facebook.com/kimuhiro57

  • おひさしぶりです。

    2011年になりました。ブログのタイトルどおり、筆不精で三日坊主!

    久しぶりに書く気になりました。
    今年は、私の持論『中途半端が一番!!』について、語っていこうと思います。
    まずは最初に、物事の対比をしてみよう。

    大きい⇔小さい
    長い⇔短い
    早い⇔遅い



    他にもたくさん【対義語・反対語辞典】を参照

    ちょっとひねってみよう。

    大富豪に極貧
    大企業に個人商店
    資本主義に共産主義

    それらから見えるものが格差
    頂点を目指し、突っ走った先の世界は、幸福に満ちているのか?

    今年は、気が向いた時に、時間があれば、少しずつ、
    『中途半端が一番!!』を検証しようと思う。

    次号予告 『田舎にメガマート』
    投稿予定日 気が向いた時 目標(春までに)

  • 工場見学

    6月20日の日曜日、北大阪商工会議所の青年部のイベントで、恩地食品株式会社の京都工場へ家内と行ってきました。

    その日は、朝から体調が悪く、吐き気がしていて食欲もなく、工場見学を取りやめようかと思っていました。

    まして、私は両親も家内も香川県の出身なので、うまいうどんを食べなれているわけですから、はっきり言って、あまり期待していませんでした。

    憂鬱な気持ちの中、重い腰を上げて、11時過ぎに、工場に到着。1時間ほど工場を見学した後に、大会議室で、うどんをいただきました。

    北海道産小麦粉を使った、出来立ての、冷えたざるうどんです。(なぜ出来立てが冷えているかは、バーチャル工場見学を見てください)

    目の前には、ざるに山盛りのうどんと、めんつゆに、ねぎと、しょうがと、胡麻の薬味だけのいたってシンプルな、ごまかしの効かない、うどんの味で勝負のメニューです。

    さぬき人としては、釜揚げうどんがよかったのですが、工場の工程上、冷やして完成です。

    食した感想ですが、これが実に旨い。5人で囲んだテーブルですが、あっという間に空になり、お替りをし、少しでいいですよと言ったのですが、また山盛りのざるがきて、それも5分程度で空になり、再度、お替りをしました。そして完食。

    総勢、40人程度のツアーでしたが、周りのテーブルを見渡してみても、ほとんどが、同様にお替りをしていました。

    どう旨いのか、説明が難しいので、知りたい方は、こちらでお試しください。

    恩地社長、ご馳走様でした。

  • 俺の母校、日本工学院の校友会から蒲田の新キャンパス完成の連絡が入りました。

    とても立派な建物でびっくり。この、不景気と少子化の学校経営には厳しい環境の中、よくぞ頑張ってくれました。本当におめでとうございます。

    写真を見ても、卒業から30年以上経っているので、昔の景色は残っていませんが、確かに2年間、青春時代を過ごしました。

    あの頃は、中村雅俊主演の『俺たちの旅』に共感というか、そのまま地で行くような生活でした。

    親元を離れての2年間、本当に楽しく、熱く、そして濃厚な、あっという間の2年でした。
    親には、経済的に本当に迷惑を掛けたと思いますが、あの2年があるからこそ、今の自分があると思う。今は亡き、父、母に感謝。

    とにかく、あの頃を思い出しながら、言葉を並べてみる。

    『赤ちょうちん』 寮の連れと行った。おでんを頼むと、汁を飲み干さないと、追加の注文を受けてもらえなかった頑固親父。すごく大人になった気がした。『神田川』と並んで『かぐや姫』の代表曲だが、どちらかというと『赤ちょうちん』のほうが好きかな。

    『池上線』 西島三重子の名曲で大好きな歌です。東京でこの曲が大ヒットしている時、夏休みに大阪に戻ってくると、『京阪沿線』という曲が流行っていたのを覚えている。

    『上野動物園』 寮に入って、最初に出かけたところである。とにかくパンダが見たかった。パンダを見た後は、『アメ横』に行ったのを覚えている。

    井の頭公園』 あいうえお、といこうと思ったがやめた。ここはなんとしてもはずせない場所で、上記に述べた、『俺たちの旅』の主たる舞台である。テレビを見て、次の日には見に行こうと連れ立って行った。 
    今はどうか知らないが、当時、期待に胸を弾ませて行ったが、小汚い小さな公園だと思ったのを覚えている。

  • 人類の進歩と不調和の時代

    小学校に上がる前に、住吉公園から西淀川区の野里に引っ越した。
    ピカピカの一年生は、野里小学校で迎えたハズ。(ちなみに、入学式の記憶はない)

    その頃の、記憶を手繰ってみる。(あくまでもアバウトな記憶、時代考証はかなり甘い・・・)

    まず最初は、『夢の超特急!、新幹線ひかり号』の話である。
    親父が、当時建築関係の会社に勤めていて、新幹線の駅舎の工事を担当していたおかげで、開業前の試乗試運転の家族招待を受けたらしい。(要するに実験台やな)
    新大阪駅から米原駅までの短い距離だったが、子供心にすごく優越感に浸ったことを覚えている。
    何せ、学校では、友だちも先生も誰も乗ったことがないのだから、うれしかったはずだ。
    でも新幹線が速かったと言う記憶はまったくない。

    今、歴史を振り返ると、当時在来線の『特急こだま』で、東京⇔大阪間を6時間以上、掛かっていた訳で、それを一気に半分に短縮したのだから、いかに新幹線が速かったのかがわかるな。

    それと、忘れてはいけないのが、東京オリンピックだが、はっきり言って、ほとんど記憶がない。
    ただ、『東洋の魔女』と呼ばれていた、女子バレーが強かったことだけは、うっすらと覚えている。

    話は変わるが、あの頃の野里界隈には、まだまだ空き地や田んぼがあった気がする。
    そして路面電車が近くを、走っていた。
    淀川では潮干狩りができていたが、あの頃、急激に水質が悪化し、大きな看板で『遊泳禁止』と張り出されたのを覚えている。

    当時、近所の女の子(今に思えば初恋の子かな?でも名前も顔も覚えていない)のお父さんが
    水の綺麗ないいところに連れて行ってあげるといって、遊びに行ったのが、今の交野の天の川界隈である。とにかく、大阪にこんなに綺麗ところがあるんだと思った。

    あの頃の日本は、すごい勢いでいろんなものを飲み込み、そして破壊しながら成長していったんだなと思う。

  • 「ひろりん」って誰やねん

    俺は1957年生まれ、今年11月で53歳。

    大阪生まれ、大阪育ち

    生まれたのは、住之江区か港区、どちらかだと思う。
    もう両親は他界しているので、今となっては謎だ。

    自分の記憶にある一番古いことは、幼稚園児の頃、住吉公園近くの自宅から、友達と雪の降る町へ行くといって、北へ向かって歩いて行き、玉出付近で迷子になり、おまわりさんに助けられ、交番で拳銃を触らせて貰ったこと。きっとその後で、母親は始末書を書いたんだろうな・・・

    もうひとつ、その頃の記憶で、家の前の道で友達とけんかになり、弁当箱をぶつけられ、おでこを2針縫う怪我をしたこと。今も、うっすらと傷跡が残っている。

    その2つは、写真が残っていないにもかかわらず、記憶に残っているので、かなり強い記憶だったんだろう。その時の友達の名前も顔も思い浮かばないが、彼の記憶には残っているのだろうか?

    当時、警察にご厄介になったことで、母親からよく聞かされたことが、もうひとつある。
    これもまた、行方不明の迷子騒ぎだ。友達とかくれんぼをしていて、行方不明になったらしい。

    結論から言うと、お隣さんの、押入れの布団の中で寝ていたらしい。夜遅くになっても、なかなか見つからないので、子供を寝かせるといって、布団を敷こうとしたら、中から転げ落ちてきたらしい。
    寝ていた訳だから、勿論、私に記憶にはないが、昔話になると、何かと母が言っていたので、よく覚えている。きっとその時も、母は始末書を書いたんだろうな・・・

    その頃の下町は、向こう三軒両隣で、子供も大人も、自由に行き来していた記憶がある。
    名前も顔も覚えていないが、なんとなく幸せだった古きよき時代である。